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高等教育機関における アニメーション教育2 日本のアニメーション映画の発展と教育

2.日本のアニメーション映画の発展と教育

 2-1.黎明期のアニメーション映画と教育

 リュミエール兄弟(Auguste Lumière & Louis Lumière)がパリのグラン・カフェの地階にあったサロン・ナンディアンで映画の一般興行を開始したのが1895年。それから11年後の1906年にフランスのブラックトン(James Stuart Blackton (1875-1941)が世界初のアニメーション映画『愉快な百面相(Humorous Phases of Funny Faces)』を公開。続いて、アメリカのジョン・ランドルフ・ブレイ(John Randolph Bray, 1879-1978)やウィンザー・マッケイ(Winsor McCay, 1871-1934)らがアニメーション映画を作り始める。
 日本にアニメーション映画が入ってきたのは、1912年(明治45年)と言われており、エミール・コール(Emile Cohl,1857-1938)の1911年の作品『ニッパルの変形 The Nipper’s Transformations(原題:Les Exploits de Feu Follet鬼火の冒険)』が日本で最初に公開されたアニメーション映画とされている(註18)。その後、欧米のアニメーション映画が多数輸入され「凸坊新画帖○○の巻」という日本風のタイトルに付け替えられ長編映画と一緒に上映されるようになる。なお、当時はまだアニメーションという言葉は無かった。
 これらの外国製アニメーション映画に刺激され日本でも漫画家や挿絵画家がアニメーション映画の制作にのりだした。1917年には、下川凹天(しもかわ・おうてん1892-1973)、幸内純一(こううち・じゅんいち1886-1970年)、北山清太郎(きたやま・せいたろう1888-1945)によってほぼ同時にアニメーション映画が制作・公開され、1917年は日本のアニメーション映画元年と言われている(註19)。下川と幸内は1〜2年でアニメーション制作から退くが、北山は制作を続けアニメーション制作スタジオ「北山映画製作所」を設立する。そこで、弟子を多く取り仕事を通じて後進の指導にあたった。日本のアニメーション教育は、他のものづくりの多くがそうであったように徒弟制度の下でのOJT(On-the-Job Training)から始まった。

 2-2.大正期〜戦中のアニメーション映画と教育

 大正末期になると他にもアニメーション映画の制作者が現れるが、1923(大正12)年に起きた関東大震災で映画会社が壊滅的な被害を受ける。古くからあった会社は京都へ移転し、東京では新興のアニメーション制作会社が出てくる。1932年、京都では専門学校でアカデミックな美術教育を受けた正岡憲三(まさおか・けんぞう1898-1988)(註20)が、「政岡映画美術研究所」を設立。松竹と提携して日本初のトーキーアニメーション『力と女の世の中』(1932年)を制作する。この時期もまだアニメーションを専門に教える教育機関はなく、依然として個々のスタジオが行うOJTが教育を担っていたが、正岡のように学校で体系的な美術教育を受けた者がアニメーション業界に入ってくるようになった。
 1941年、松竹が東京で「松竹動画研究所」を設立すると、正岡もそちらへ移籍し『くもとちゅうりっぷ』(1945年)などを制作する。一方、戦時中は軍部がスポンサーとなってプロパガンダ用のアニメーション映画が多数制作された。正岡の弟子のひとり瀬尾光世(1911-2010)が監督した『桃太郎海の神兵』(1945)はその最大のもので、セルやマルチプレーンカメラ(註21)など当時最新の制作機材や統制品で手に入れるのが難しくなっていた映画フィルムもふんだんに使うことができた。敗戦目前の物資が不足する時代に、プロパガンダ映画を制作するために全国から集められたアニメーターたちが贅沢な環境下で互いに技術を磨き合い作品に投じるという皮肉な状況があった(註22)。

 2-3.戦後〜第一次アニメブームと教育

 1947(昭和22)年、「松竹動画研究所」を離れた正岡は、山本善次郎(やまもと・ぜんじろう)(註23)らと「日本動画株式会社」を設立する。このスタジオは、後に東映の傘下に入り「東映動画(現・東映アニメーション)」となる。「東映動画」は、東洋のディズニーになることを目指してカラーの長編劇場アニメーション映画の製作にとりくみ『白蛇伝』(1958)を発表する。また、「東映動画」は、この時期、手塚治虫のマンガ『ぼくの孫悟空』(1952-59)を原作にしたアニメーション映画『西遊記』(1960)の制作にも着手し、手塚も一時期スタッフとして「東映動画」に参加している。
 手塚は「東映動画」で得たノウハウをつかって自身のアニメーション制作会社である「虫プロダクション」を設立し、世界で始めてテレビの連続アニメ『鉄腕アトム』(1963-66)を制作する。動画枚数を減らすなど徹底した省力化を行い、今日の日本のアニメ表現と制作スタイルを方向付けた。『鉄腕アトム』がヒットすと「東映動画」も『狼少年ケン』(1963)でテレビに進出し、さらに「TCJ」「東京ムービー」「タツノコプロ」など多くの制作会社がテレビアニメに参入する。この時期が第一次アニメブームである。このころは未だ学校でアニメーションを専門に教える所はなく、各々のスタジオがOJTで教育を行っていた。
 また、この頃、グラフィックデザイナーやイラストレーターなどアニメ畑以外の人々が短編アニメーション映画を制作し、芸術性の高い作品を多数発表している。代表的な作家にアニメーション三人の会(註24)の久里洋二、柳原良平、真鍋博らがいる。特筆すべきは、彼らはいずれもアニメーションスタジオで働いたことがなく、ほぼ独学でアニメーション映画の制作技術を習得した点である。こうした事が可能になった背景には、16mmや8mmなど一般でも手が届く映画機材が開発されたことがある。このことは学校教育の中にアニメーションが入ってゆく下地を用意することにもつながった。

 2-4.第二次アニメブームと教育

 その後、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)を切っ掛けに青年層がアニメに熱狂し、第二次アニメブーム(1970年代後半〜80年代後半)が到来する(註25)。そしてこの時期にアニメーターや声優などアニメ映画の制作技術者を養成する学校が誕生する。「大阪デザイナー学院(現・大阪デザイナー専門学校)」(1977-)や「代々木アニメーション学院」(1978-)(註26)がその草分けである。一方、大学ではまだアニメーション映画の制作技術を専門に扱うところはなく、「日本大学芸術学部」と「大阪芸術大学」に劇映画の制作技術を扱うコースがあったのと、松本俊夫(註27)(1932-)が教授を務めた「九州芸術工科大学(現・九州大学)」の画像設計学科(1968-2003)と「京都芸術短期大学」の映像コース(1985-2001)が実験映像の枠組みの中でアニメーション映画を教えている程度(註28)だった。

 2-5.第三次アニメブームと教育

 「アニメバブル」とも呼ばれる第三次アニメブーム(1990年代〜2000年代前半)のなか、押井守(1951-)の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)が欧米でヒットし、日本でも庵野秀明(1960-)の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)が多くの観客を獲得する。さらに、宮崎駿(1941-)の『ものけ姫』(1997)や『千と千尋の神隠し』(2001)が世界で称賛を浴びる。また、同時期のインディペンデントのアニメーション作家の中にも、『頭山』(2002)の山村浩二(1964-)や『ほしのこえ』(2002)の新海誠(1973-)など、マスメディアに取り上げられ一般にも名前を知られる者が出てくる。この時期の特徴として特筆すべきは、animeが世界的な大衆文化として定着し、世界中の子どもや若者が日本製のアニメ映画に熱狂した点であろう。この時の子どもたちが、後にアニメを勉強するために日本の高等教育機関に留学してくることになる。
 しかし、全てが上手くいっていた訳ではない。ブームに乗ってアニメ映画の需要が増える一方で、これまでのブームを支えていたベテランアニメーターたちが高齢化して引退しはじめる。さらにアニメーターの人件費を節約するために、中国や東南アジアに制作をアウトソーシングしていたことで国内での人材育成が疎かになり、アニメーターの空洞化がおこっていた。そのため、国内での即戦力となる技術者養成が急がれ、アニメーション映画の制作会社の中にはOJTではなくカリキュラムをもった学校形式の教授法で社員を育成するところも現れた。東映アニメーションは「東映アニメーション研究所」(1995-2011)をいち早く設置し新人教育を行った。
 空前のアニメブームにもかかわらず人材不足が問題となっていたこの時期は、学校でのアニメーション教育が一気に拡大した時期でもある。アニメを教える専門学校が全国に広がり、4年制大学でもアニメーション映画を専門的に教えるところが現れた。2003年から「東京工芸大学」がアニメーション学科を、「東京造形大学」がデザイン学科の中にアニメーション専攻領域を、さらに「京都造形芸術大学」が通信教育部にアニメーションコースを設置した。こうした動きに刺激され、「大阪芸術大学」キャラクター造形学科アニメーションコース(2005-)、「京都精華大学」マンガ学部アニメーション学科(2006-)、「京都造形芸術大学」キャラクターデザイン学科アニメディレクションコース(2007-)などが相次いで設置された。

 2-6.デジタル技術を使ったアニメーション映画の興隆と教育

 2000年代の特徴としてもうひとつ挙げなければならいのは、アニメーションのデジタル化である。ハリウッドでは脱手描きアニメーション化が始まり、『ジュラシックパーク』(1993)や『トイ・ストーリー』(1995)など3DCG(註29)をフルに使った映画が作られ世界的な大ヒットとなった。
 この流れにいち早く反応して、日本でもCGをカリキュラムに取り入れる学校やCGを専門に教える学校が登場する。株式会社立の「デジタルハリウッド」(1994-)や「コンピュータ総合学HAL専門学校」(1994-)がその先駆けである。これらの学校の特徴は、CGプロダクションやゲーム会社と提携し制作現場で働いている技術者や芸術家を講師に招き実践的な教育を行うというものだが、こうした方法がとられた背景にはCGという新しい分野の技能を習得した教員が不足していたという事情がある。

 2-7.美術大学のアニメーション教育

 2000年代の中盤から終わりにかけてアニメーションを扱う美術学校が増えたのは、アニメ業界の人材不足を補うためというよりも、若者に人気があるカリキュラムを導入して学生をより多く集めようという経営的な判断が働いたからである。その背景には、絵画や彫刻といった旧来からの分野が以前ほど学生を集められなくなったことや少子化に対する危機意識などがある。ここから分かるように当初多くの大学では必ずしもアニメ業界へ人材を供給することを目的にしていたわけではない。専門学校との違いはこの点にあるだろう。
 大学のアニメーション教育の特徴は、すでに専門学校が行ってきたアニメ映画の制作技術者を養成するカリキュラムを部分的に取り入れつつ、第1章で紹介したような多様な視点からアニメーションを捉えて研究・教育を実施している点にある。したがって卒業後の進路もアニメーターに特化しているわけではなく、グラフィックデザイナーやイラストレーター、美術家、教師など様々な方向に進む者がいる。
 即戦力の養成を期待していたアニメ業界からは美術大学に対する失望や不満の声もあがったが、従来の美術教育から抜け落ちていた領域を補完し、さらにこれまでの美術大学では輩出できなかった新しいスキルを身につけた若者が教育分野で能力を開花させる機会にもなった。また、旧態依然とした美術大学に活性化をもたらす効果もあった。さらに、2000年代の中頃から国や地方自治体によるアニメ業界への支援が始まり、産官学が連携した人材育成の試み(註30)が行われるようになると、業界と大学の距離も近づくようになり協力してアニメ業界の活性化をはかる動きも出て来ている。
 大学でのアニメーション教育導入の動きは大学院教育にも波及し、「東京芸術大学映像研究科アニメーション専攻」(2008-)や「京都造形芸術大学研究科芸術表現専攻ビジュアルクリエイション領域」(2000-)でアニメーション映画の制作指導が行われている。また、文学部系の大学院では、アニメーション映画の作家やアニメーション作品を対象にした研究が多数行われるようになり多くの若手研究者が育っている(註31)。
 2016年現在、アニメーションを扱う短期大学・大学・大学院は30校、専門学校93校、これら以外の専門教育機関は8校、制作会社が社員教育や新人採用を目的として設置した学校が1校 (註32)、その他、お絵かき教室のようなスタイルでアニメーションを教える私塾も増えてきている。


(註18)リッテン フレデリック・S「日本の映画館で上映された最初の(海外)アニメーション映画について」(アニメーション研究15(1), 27-32, 2013年)

(註19)日本のアニメーション元年:1917年、下川凹天(しもかわおうてん(1892(明治25)-1973(昭和48))が『芋川椋三(いもかわむくぞう)玄関番の巻』、幸内純一(こううちじゅんいち(1886(明治19)-1970(昭和45))が『塙凹内(はなわへこない)名刀の巻(通称:なまくら刀)』、北山清太郎(きたやませいたろう(1888(明治21)-1945(昭和20))が『猿蟹合戦』を公開した。

(註20)正岡は、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高校)を卒業した後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に進んで日本画を中心に洋画や美術理論も学んでいる。

(註21)セルやマルチプレーンカメラ:デジタル化される前のアニメーション制作では、透明のセルロイド(後にアセテートに代わる)のシートに背景やキャラクターを描き、それらを重ね合わせて撮影していた。複数のセルロイドシートを重ねて撮影することができる撮影装置をマルチプレーンカメラと言い、大変高価で巨大なものだった。

(註22)戦時中のクリエイティブ:戦時下の総動員体制の下、多くの才能有る芸術家やデザイナーがプロパガンダに関わった。アニメーションに限らず映画やデザインや出版など注目度の高い分野に巨額の予算が投じられ、多くの作品が作られた。皮肉にもこの時期に日本のクリエイティブが飛躍的に進歩した。

(註23)山本善次郎(やまもとぜんじろう):山本早苗(やまもとさなえ)ともいう。北山映画製作所で北山清太郎の下でアニメーション制作を学ぶ。1925年に山本漫画製作所を設立し、官庁の宣伝アニメーションを制作。1947(昭和22)年、政岡憲三らと共に東映動画の前身にあたる日本動画株式会社を設立。

(註24)アニメーション三人の会:日本のインディペンデントアニメーションの草分け的存在。1960年代に草月アートセンターを中心に活動し、武満徹、小野洋子、一柳慧ら前衛芸術家とも交流をもった。当時まだ珍しかったアニメーションという言葉の普及に貢献したほか、コンクールと映画祭を実施して横尾忠則や宇野亜喜良や手塚治虫などの異分野の芸術家に短編アニメーションを制作する場を提供した。

(註25)第2次アニメブーム:第1次アニメブームでアニメに触れた世代が成長したのに合わせて『宇宙戦艦ヤマト』などの青年向けの作品が作られるようになった結果、ブームになった。

(註26)代々木アニメーション学院:アニメーター、声優、マンガ家などの育成を目的に、日本初のアニメーション専門の教育機関として1978年(昭和53年)に創立。学校法人大矢学園の関連学校としてスタートしたが専門学校ではなく英会話スクールなどと同じ扱い。全国に校舎を開設し、1998年(平成10年)には約77億円の売上を計上したが、2004年(平成16年)ごろより業績が低迷。2006年(平成18年)には大矢学園が経営から退き民事再生法の適用をうけ、教育事業・劇場経営・ライブハウス運営などを行っているRHJインターナショナルが事経営を再建した。

(註27)松本俊夫(1932-):映像作家・映画監督・批評家。実作者として活躍するのと平行して映像教育の分野でも功績をあげている。九州芸術工科大学(現・九州大学)、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)、日本大学などで実験映像を教え、日本の映像教育の礎を築いた。

(註28)実験映画:映像表現の可能性を追求するために制作される映画。一般的に、映画は物語があって役者が出て音楽が付いて…と言うように定まった形式があると思われているが、これは映像芸術の一形態にすぎず他にも多様な表現方法がある。実験映画とは映像をつかった新しい表現方法や表現思想を探求する一連の創作であり、制作の過程ではしばしばアニメーション術が用いられる。

(註29)3DCG:三次元コンピュータグラフィックス。コンピュータソフトウエアの中に仮想の三次元空間をつくりだす技術。アニメーション映画の制作にも使われる。仮想の三次元空間に建物やキャラクターを配置し、それらを動かすことでアニメーション映画が作られる。米国ではすでに手描きのアニメーション映画は作られなくなり、すべて3DCGによって制作されている。

(註30)産官学の人材育成:公的な支援が行われるようになってアニメーション業界の実態調査やそれに基づく人材育成が行われるようになったが、予算が終わるとプロジェクトも終わってしまい継続的な人材育成に繋がらないなどの問題もある。一般社団法人日本動画協会(http://aja.gr.jp/)などが積極的に活動している。

(註31)文学部系大学院のアニメーション研究:アニメ映画やテレビアニメで育った若者たちが大学院に進むようになると、文学研究、映画研究、表象文化研究などの分野でアニメーション映画の作家や作品が研究対象になることが増えてきた。

(註32)アニメーションを教える学校:インターネットの学校紹介サイト「リクナビ進学」などを元に調査(2017.1.20)。
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プロフィール

大西宏志 / Hiroshi ONISHI

Author:大西宏志 / Hiroshi ONISHI
大西宏志

1965年生まれ。映像作家。京都芸術大学(旧名称:京都造形芸術大学)情報デザイン学科教授。映像プロダクション、CGプロダクションのディレクターを経て2002年より現職。ASIFA-JAPAN(国際アニメーションフィルム協会日本支部)理事、比較文明学会会員、モノ学・感覚価値研究会アート分科メンバー。
www.onihiro.net

ONISHI Hiroshi

Born in 1965. Intermedia Artist. Currently a professor at Department of Design, Kyoto University of Art and Design. Took the position of image production and CG production director in 2002 until now. A member of ASIFA-JAPAN (Association Internationale du Film d’Animation - Japanese branch) and MONO-sophy (monogaku) /Sense-Value Study Group.
www.onihiro.net

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